みなさん、こんにちは。
東日本大震災から今日で12年となりました。
今回は、当時私がどのように被災したかを回想します。
2011年3月はまだ入籍をする前で、前年のクリスマスに現在の配偶者からプロポーズを受けたものの、結婚式や新婚旅行も未定でいろいろと考えている段階でした。
その日は金曜日で、自宅から通勤をしてオフィスで仕事をしていました。
当時勤めていた会社は高層ビル群の中にあるビルで、私は25階で勤務していました。
会社内で仲の良かった上司・仕事仲間と一緒にランチ営業をしている居酒屋でランチを楽しく食べて、「終業後は婚約者と飲みにいこうかな」とウキウキしながらオフィス内で午後の時間を過ごしていました。
まだ少し肌寒かったけれども陽気が春めいてきていて、花粉症を感じながらも婚約中で幸せな気分だったことを覚えています。
そのオフィスのフロアに設置されていた複合機が、どういうわけか機械の下にダンボールが敷いてあって、そこを踏んで複合機を操作していたとき、ものすごく揺れたのです。
ピンヒールを履いてダンボールを踏んでいたので、私は一瞬、ピンヒールでダンボールに穴があいたりへこんだりしてバランスを崩したのかと思いました。
デスクに居た人達がデスクの下に潜り込むのが見えて、私も慌ててデスクに戻りました。
今思えば、この初動は間違っていたと思います。
なぜかというと、当時、私のデスクの真後ろが上司の個室となっており、ガラスで仕切られた部屋だったのです。
もし、このガラスが割れてきたら、私は血まみれになっていたことでしょう。
それからはもう仕事どころではありませんでした。
25階の揺れはなかなかおさまらず、上司の個室の隣にあった会議室のキャスター付きの椅子が何脚も床を行ったり来たりガーガー動いていたのを覚えています。
ビルの揺れで酔って洗面所にうずくまっている人もいました。
幸い、インターネットはつながっていたので情報を得ながらどうやって帰宅しようか考えていました。
実は当時、たまたま勤務地の最寄駅の隣駅近くに彼が一人暮らしをしていたのです。(彼が隣駅に住んでいるから一駅で行けるここの派遣先にしよう とかではなく)
実家に「今日は彼の家に泊まる」と連絡し、「電車の復旧状況によるので、いつ実家に帰るかもちょっとわからない」と伝えました。
会社の固定電話から彼の携帯に電話をすると、仕事を切り上げて徒歩で帰宅するということでした。
その間、私はオフィスで待機していたのですが、当時の社長が牛丼をみんなに差し入れてくれて感動しました。
エレベーターが停まっていたのに、25階まで運んでくれたのです。30人前はあったと思います。
約3時間後、「着いた」と連絡を受けたので25階から階段をおりて隣のビルまで行くと、ヘトヘトになって座り込んだ彼を見つけました。
普段、どんな状況になっても地面に座ることなんてない彼がそのような状況になっているのを見て、「これは大変なことになったぞ」とそこでやっと状況を把握したのでした。
そして、ほかにもそのような人々がそのビルのロビーにたくさん居たのです。
私はずっとオフィス内に居てデスクに座ったままで外部の様子が見えなかったので、そこで初めて混乱を目の当たりにしました。
彼は疲れていたけれども他に方法もなく、道を歩いて帰宅することにしました。
途中、振り替え輸送のバスが復旧しており、超満員で運行していたけれども運よく乗れて、19時頃に彼の自宅周辺に着きました。
(オフィス最寄り駅から彼宅最寄り駅まで一駅区間ではあったけれども、それは「快速」で一駅なのであって、各駅停車だとその中間に数駅あるのです。そして後から道を調べたら遠回りしていた)
行きつけの居酒屋があり、私は牛丼を食べていて空腹ではなかったけれども彼は疲れ切っていたので、そこでご飯を食べました。
店主とも顔なじみになっていたので、「大変なことになったね」とお客は私たちしかいない店内で店主と話していました。
彼の自宅に帰宅してニュースを見て、お風呂に入ったり寝支度をして「もうずっとテレビをつけていても仕方がないし、不安だけども寝よう」ということになりました。
布団に入って暗闇で二人で話をしていて、「こんな状況だけれども、会話する相手が居て良かったな。この先これからもどんなことがあってもこの人とならば楽しくやっていけそう」と思ったのでした。
日本列島は4つのプレートの上に存在しており、そのひずみが地震となるのです。
日本という国に住んでいる以上、地震の脅威からは逃げられません。
私たちには備えておくことしかできないのです。
今一度、防災備蓄を見直してみませんか?
大地震経験者の感想で「一番困ったのはトイレ」ということを耳にしたことがあります。
まずはこちらを保管しておくことをお勧めいたします。